差別について

最近帰国した際に友人から彼女のお気に入りのライターだというブレイディみかこさんの本を頂いた。本の内容に共感するのはもとよりブレイディみかこさんが私たちの地元出身ということや母親ということでもますます親近感が湧くのだろう。

「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」は、複数の民族や経済格差による階層の交錯する社会の様子を学校という世の中の縮図のような世界から見せてくれたりする。子供の世界で起こることだから大人の世界よりもあからさまだったり、その出来事に対する感情が生々しかったりする反面、大人の私たちから切り離された子供の世界というところで起こっていることで実際の世の中の問題を一歩下がって見つめたり考えたりすることができるような気もする。

この本から見られる英国の多様性とか自分の権利を理解したり主張すること、他の存在の認知やその受け入れ方に関しての教育が早くからなされている様子に感心する。米国でそのようなことに対してどうのような教育が行われているのか私は知らない。ここでは不当に扱いを受けたと信じる人たちが自分の権利を主張する運動をしたり裁判を起こしたりする事ばかりがメディアで取り上げられるけれど、その根底にあるものについて掘り下げるようなことが論じられるのを見ることはまずないような気がする。

差別はどの国にも存在するけれどそのあからさまさや差別への対処の仕方は文化によって様々なよう。私の暮らすところにも人種、性別、年齢、貧富の差や心身障害などに対する様々な差別が存在する。この機会に、20年の間に私が見聞きまたは体験した暮らしぶりの違いや差別のいくつかに触れてみたい。

貧富の差

私の暮らす辺りについて言えば、貧富の差についてあまり身近に感じたことがないように思う。自分が金銭的にキツイ時期はあったにしても貧困というものとはほど遠い。極端に貧しい暮らしをしている人や裕福な暮らしをしている人たちと直に接することもないような気がする。

とはいうものの、ニューヨークやボストンの通りでホームレスの人たちを見かけるし、近隣の町でひどく傷んだ家が軒を連ねるような所を車で通り抜けることもある。田舎の方に行くと怪しげなトレーラーパークというモバイルホームに住む人たちの団地みたいな所を見かけることもある。言葉は悪いがトレーラートラッシュと呼ばれる人たちが住む所だ。

裕福な人たちが住む町、暮らし向きのよくない人たちの住む町というのがある。裕福な人たちが住む町には大きな手入れの行き届いた家々が軒を並べ、静かに平穏な時間が流れている。その逆に当たる町は建物ばかりではなく通りも荒れていたりして、気持ちの落ち着かない緊張感を漂わせている。町によっては銃撃事件が日常茶飯事というところもある。銃撃事件のニュースを見ると「またあの町じゃないの?」と推測すれば大抵当たっている。

以前勤めていた職場の同僚の子供が通う小学校の校区の一部があまり裕福な地域でなく、親がクリスマスのプレゼントを準備する余裕がない家庭があるからと学校がクリスマスツリーを設置してそんな家庭の生徒たちにクリスマスに欲しいものをカードに書かせてぶら下げ、学校に出入りする人たちにプレゼントのサポートを求めるシステムを作っていた。彼女が自分の子供を送り迎えするときにその事を耳にしていくつかカードを取ってきて社内の数人でプレゼントを用意した。そのお願いするプレゼントはコンピューターゲームやバービー人形ではなく、エリック・カールの絵本だったり絵の具のセットだったりするのだ。その後そのプレゼントを受け取った子供たちと直接顔を合わせることはなかったので、彼らの暮らしぶりを垣間見ることはなかった。

そんな感じである意味の住み分けという状況が起こっていることを目の当たりにすることはあるものの、貧富の差に関する差別については直接的に見聞きしたことがないように思う。もしかしたら気が付いてないだけなのかもしれないけれど。

当然の違い

白人には白人と非白人(=有色人種)の違いによる差別はあって当たり前のような感覚があるようだ。白人は非白人と違って特別な位置付けにあるのが当然だといった感覚のことだ。意識じゃなくて感覚なのである。例えば白人と非白人の夫婦がいて非白人の配偶者が白人である同僚や義理の家族から不当な扱いを受けたと配偶者に告げる。すると白人の配偶者は「それで?何が問題なの?」という反応をすることがあるのだ。非白人の配偶者はその待遇の不当性を説明する。それでも白人には何が問題なのか理解できないのである。側から見れば明らかに敬意のない対応でも白人文化の中では「だってあなたは白人じゃないから仕方ないじゃない。」という感覚が空気のように溶け込んでいるという。当たり前のことにどうして目くじらを立てるのか、彼らには理解できないのだ。これは一時カウンセリングを受けていた心理学医から聞いたことだ。

ヨソ者意識

アメリカの人種差別は肌の色の違いに基づくものという印象があるかもしれないけれど、私の知る限り、白人の間でも様々な差別がある。ユダヤ、イギリス、アイルランド、イタリア、フランス、ドイツ、ヨーロッパの各地から移民してきた人たちやその子孫たちが自分以外のルーツの人たちを差別する言葉を耳にすることがある。アメリカ映画の中でそういう場面に気づく人もいることだろう。白人は白人で内輪の差別意識があるのだ。

白人に関わらず、黒人、アジア系、ラテン系や他の人種の白人や他の人種に対しての差別意識も言うまでもなく存在する。

そんな人たちも職場や近所でルーツの違う人たちと当然交わることになるのだけれど、個人レベルでの付き合いがあるとほとんどの人たちがお互いのルーツに関わらず仲良く交友している。もちろん職場であからさまな差別行為をすれば職を失いかねないことになるのは周知のことだけど…。

誤解をまねかないように、誰もかれもがそんな差別意識を持っているわけではない。他人を人種としてではなく個人として捉え、どんな人種の人たちとも分け隔てなく付き合っている人たちも多い。

ひとくくり

諍いが多いことがメディアで取り上げられがちで閉鎖的であまり知られていない文化の人たちだけれど、イスラム教徒の人たちはとても情が深く思いやりがある。少なくとも私の出会ったイスラム系の人たちはそうだ。9・11以来、彼らに対する風当たりがしばらく強かった。「イスラム教徒=テロリスト」は真実ではないのに…。そんな風な見方をする人たちがいる。

バイトをしていた頃の話だ。イスラム系の若い夫婦がカウンターにやって来て彼らの探しているものについて尋ねてきた。あいにく店はその商品を取り扱ってなかったのでそう告げると、その夫が怒りを露わに私にまくし立てた。「僕らがイスラム教徒だからって、あんたらの商品を売らないってことはどう言う事だ!そんな差別を受ける筋はない。」奥からその声を聞いた白人のマネージャーが出てくると彼に事情を尋ねた。彼が経緯を告げるとマネージャーもその商品は店にないと伝え、私を奥に下がらせた。そして彼に向かって「うちでその商品を取り扱ってないのは真実だし、この店では誰もあんたたちを差別なんてしてないよ。だいたいなんでアジア人でマイノリティのあの子があんたたちを差別してるなんて言えるわけ?そんな揉め事はうちには必要ないから出てってちょうだい。」と言いその夫婦を追い出したのだ。

その後、その夫の過剰な被害妄想とでもいうべき反応がずっと心に引っかかった。きっといく先々でいわれのないひどいあしらいを受けてきたのだろう。心が卑屈になるほどに悔しい思いを繰り返し繰り返ししてきたのだろう。そう思うと泣けてきた。

理不尽な差別がごく身近なところにあることに驚いたことがある。ある夕方上司と一緒に駅へ向かっていたときのことである。彼が見たテレビ番組のことを話しだした。「世界は20XX年までにキリスト教徒を抑えて全人口のxx%がイスラム教徒を占めると予測されてると言ってたよ。なんて恐ろしいことだ。戦争が絶えないひどい世界になるぞ。」と言うのだ。なんでそんなナンセンスを真顔で話せるんだろう、今までキリスト教徒が大多数を占める世界でだって常に戦争が絶えないのは歴史的に証明されてるし、しかも大航海時代にはキリスト教徒のヨーロッパ人がアフリカ、アジア、アメリカ大陸へ赴き、彼らが"発見"した土地で略奪や搾取の限りを尽くしたのは周知のとおりじゃん、それと何が違うわけ?と思っていると、「彼らは何を考えてるかわからん。」などと言うので、「でもうちのチームにもイスラム教徒がいるじゃん。」と言うと、真から驚いた顔で、それは本当かなどと聞き返してきた。本当だと言うと、人事問題に関わるからイスラムの話題に触れない方がよいと思ったらしく上司はそれ以上何も言わなかった。イスラム教徒の同僚はその一末を知らない。人のよい彼はその上司を慕っている。そんな上司を信頼する彼を見ると複雑な思いが隠せない。

差別の概念

渡米して数年の頃、地元のプログラマーの学習会グループが請け負う非営利団体のウェブサイトを作成するプロジェクトに参加することになった。グループを取りまとめるキャロラインと二人でデベロッパーの自宅に打ち合わせに行った時のことだ。50代半ばと見える白人男性は私のことをあからさまにバカにした態度であしらった。当時は今ほど英語もわからなかったから気にも止めなかったけど、私に対して差別的なことを彼が口にしているのは明らかだった。Y2Kの熱が冷め不景気の波が押し寄せ企業で解雇の続く中、中国人やインド人移民が職を維持する一方アメリカ人は解雇され移民に職を奪われているという概念が特にプログラマーの間で広がっていた時期だ。私も彼らの雇用問題の一部として解釈されたのだろう。彼の家を出るや否やキャロラインの怒りが爆発した。「あんな失礼な態度はあってはならない。」とまるで自分が侮辱されたように憤慨した。時に言葉がわからないというのは自分を守る盾になると思った。

数日後別のプログラマーとの打ち合わせに行った。キャロラインは先日の出来事での彼女の行き場のない不満を話した。キャロラインが話し終えると少し間をおいてデイブが口を開いた。デイブも50代半ばほどの白人である。彼は穏やかにこう言った。「ふむ、僕はこの世の中から差別が無くなることはないと思う。差別というのは自種存続の本能から来るものだと思うよ。」デイブの差別の受け取り方は社会学を超えて生物学に遡るもっと深いものだった。自分たちの種を未来に存続させるために自分たちを他よりも優れたものだと判断し、より優れたものの存続を正当化する。究極的には自分の種を守るために他の種を傷つけたり絶滅させるのは悪くないっていうような理屈だ。食うか喰われるかと言った時代の理論に思えるけど、これって人間史上大なり小なりずっと繰り返されてきていることだ。そしてそれは理性の存在に関係なく自然界の中でも様々なスケールで起こっているのも確かだ。デイブの言葉は私の差別の概念を覆した。

差別の真意

広辞苑は差別を次のように定義している。

  • 差をつけて取りあつかうこと。わけへだて。正当な理由なく劣ったものとして不当に扱うこと。
  • 区別すること。けじめ。

差別はどこにでも起こる。他人が自分と違っている何かを見つける度に差別は起こる。けれども差別というと何かしら感情的な投影があって前述の定義がすぐに頭に浮かぶから、差別そのものがよくないイメージの言葉として捉えられがちだけれど本当はそうじゃないと思う。差別という言葉は本来後述の意味として作られたように思う。前述の定義には後述の意味に偏見と否定的な感情が伴っている。

この世界の誰一人として他人と同じなことはない。何かしら違いがあるから私たちは個人として存在し得る。もちろん多くの共通要素をお互いに持っているけれど、誰一人として他人と全く同じ肌の色や髪の色、声や味覚、感性や物事の捉え方を持つことなんてない。同じと思えるくらい似ている何かを持っているだけなのだ。

多くの人たちは自分が大多数の他人と同じ、マジョリティに所属する、ということで安心感を持つようだけれど、実はその「同じ」は存在しない。誰もが独特なのが真実だ。その独自性のおかげでこの世の中は成り立っている。誰もが全く同じ考え方で同じことしかできなければ、今の世界は存在しない。

これまでは差別問題を取扱う際に誰もが自分たちと同じだから平等に扱われるべきだということが主張されてきたけれど、本能的に自分は他と違うという概念が存在するならその考え方には無理がある。誰もが違って当たり前をいう観念を表面化させたがよほど健全なように思う。個々がそれぞれに違ったものを持っている。その違い、お互いが持っていないものが誇示できて尊重されてこそ、お互いの利益となり誰にとっても存在しやすい世の中になるはずだ。違いを分け隔てるのでなくインクルーシブの世界、誰もが個々に違っていてこの世界はその集合体、自分を含めて誰にも居場所のある世の中と考えた方が何か違いを見つけて争う原因を探すよりずっと楽に生きられるのにね。


Comments